御影堂
法話

道徳念仏申さるべし

常圓寺 井上敬信

 💚1月の法話💚 

平成30年12月30日に父が往生しました。「今年年賀状をどうしようか」と思いました。浄土真宗では阿弥陀様のお浄土に生れさせていただいたのだから、悲しいことではない、喪中は気にしないということで、身内が亡くなられても年賀状を出される人もいます。2年前は平成30年8月に私の祖母も亡くなりましたので、「祖母が亡くなって、年賀状を出してもいいけど、出す気にならない。その旨を伝えて失礼しよう」と思い、年賀状を出しませんでした。

一周忌を控えた12月上旬、「喪中って期間はどう考えたらいいのだろう?」と考えました。昔神田正輝さんのお母さんが亡くなられて「一日で喪中が終った」といっていたから、年をまたいだから終わったと考えていいのか。葬儀は1月10日にしたから、今年も喪中になるのか等々考えまして、年賀とは年が改まった挨拶をすることだから、気にしないで年賀状を出すことにしました。

今回調べてみて、喪ということ忌ということは言葉の定義が違うことを知りました。喪とは漢字辞典には死者を悼み葬る儀礼。またその儀礼の期間。葬式。葬礼。また哭(声をあげて泣く)と兦(かくれる)から構成される。亡くなった人を偲び悲しみの中にいることです。忌はキ、いむ、いまわしいと読み、いむには①憎む、②嫌う、縁起が悪いものとして避ける等の意味があり、忌には死の穢れが身についているので他のものに移らないようにさけるとあります。喪中による年賀欠礼は忌の意味で使われており、亡くなられた方をかかえる人が穢れを抱えているから新年の挨拶はすべきではないということなのだと思います。

喪の意味で父や祖母が亡くなったことを悲しむということは当たり前ですが、忌の意味、穢れ、死ぬということを忌まわしく思うということは浄土真宗の教義と反します。何故な生きているものは必ず死ぬからです。亡くなった方は先立っていかれただけで、私たちも同じように後に続くからです。死を目隠しするために穢れとして忌み嫌うのは、死なないならまだしも、必ず死ぬのですから、おかしなことだと思います。

年賀とは年の改まったことを祝うことです。本願寺の八代目の蓮如上人は年の初めに、勧修寺村の道徳に次のように仰せになられました。

道徳はいくつになるぞ 道徳念仏申さるべし

昔はお正月に一歳年を重ねました。一つ年を重ねるにあたり、改めてお念仏を称えなさいと勧められたのです。私の父はガンの末期でしたが亡くなる直前まで元気でしたので、まさか亡くなるなんて思っておりませんでした。ですから昨年は寂しい正月を迎えました。新年を無事に祝えることがなんと有難いことかと昨年は感じました。ですがそれでも阿弥陀様は悲しみの中に共にいてくださる。お念仏は阿弥陀様が「あなたのそばにわたしはいるよ、安心しなさい」というお喚び声であります。

今年もお念仏とともに、阿弥陀様とともに歩んでいきたいと思います。