法話

10月法話「お育てをいただく」



高林寺菅原智之

 一昨年、築地本願寺にて「へいわフォーラム 命のメッセージ ~収容所の子どもたちが描いた絵~」が開催され、ノンフィクション作家 野村路子さんの講演を拝聴しました。

 野村さんは第2次大戦のアウシュビッツ強制収容所跡を訪れ、ホロコースト(ユダヤ人虐殺)に心乱されたそうです。ドイツ兵はユダヤ人を毒ガスで殺害、金銀の装飾品を押収。毛髪を集め、遺体は焼却。全てが平然と、効率的に、無表情で行われていた事実…。「これが人間の仕業なのか」と。

 また彼女は、チェコスロバキア(当時)の博物館に展示されていた素朴な絵に衝撃を受けます。それはナチスが同国に設置した「テレジン収容所」のユダヤ人の子どもが描いたものでした。子ども達は、極度の栄養不足と労働により病死するか、アウシュビッツへ送られる未来しかありません。

 そんな子どもらを案じた収容者の大人達。ドイツ兵の隙を見てゴミ箱から紙を拾い集め、絵や詩を教えました。目を輝かせながら粗末な紙に描く子ども達。戻れない日常生活や両親の温もりに包まれたあの頃を。そして残された4000枚の絵画や詩。それは幼き命がこの地球上に存在した証です。

 野村さんは収容所の生存者と面会しました。ある女性は、13歳で強制収容されましたが生き延びました。今はユダヤ人にとって「神との約束の地」であるイスラエルに住んでいます。

 「あのような苦しみを経験したユダヤ人が、現在パレスチナ人に強いていることに対して、どんな思いを抱いているのか」と野村さん。彼女は答えました。「やっと安心して暮らせる国を持てたのだから、仕方がないことだ」。

 人間…。それは自分の都合でしか生きられない悲しい生きものです。残念ながら「私」と「あなた」の都合は噛み合わない。彼女も、そして私も…。

 「都合を叶える為に神仏を拝む」というのが世間一般の宗教観でしょう。しかし本来仏教・浄土真宗は、都合を叶える為に拝むのではありません。自分の都合に振り回されている私が、仏さまから問題とされるのです。

 中国・善導大師は「観経疏(かんぎょうしょ)」に「教経は鏡のごとし。しばしば読み尋ぬれば智慧を開発す」と仰います。仏教は鏡。そこに映る我が姿。それは「自分の都合を叶える為には人の犠牲を厭わない」という、闇を抱えている我が姿でした。

 阿弥陀如来は智慧と慈悲の仏さまです。智慧とは闇を照らす光に喩えられます。その光は、我が身可愛さという煩悩を抱えている私を「凡夫(ぼんぶ)」であると照らし出します。

 慈悲とは慈しみと悲しみの心。凡夫の私を深く悲しまれるが故に、抱き取りはなさないと願いおはたらきくださる温もりです。
 「南無阿弥陀仏」のお念仏は、その願いとはたらきそのもの。如来は私をお育てくださるのです。

 テレジンの子どもの作品で、大変印象的な一枚があります。薄茶色のボール紙に描かれたベットに横たわる2人の少女。右の子の髪には毛糸が貼り付けてありますが、左の子には本物の毛髪が。毛糸が足りなくなり自分の髪の毛を貼ったのでしょう。しかし作品は未完成。何故なら作者はアウシュビッツへ…。僅かな髪の毛だけがその子の形見です。

 ある展覧会でのこと。「手を触れないでください」の注意書きにもかかわらず、何人もの人が絵の少女の頭に触れようと、手を伸ばしました。 
「たったこれだけの髪を残して死んだ子の頭を撫でてあげたかった」と。

 悲しき生きもの人間。止まぬ暴力の連鎖。それに心から涙し、教経に尋ねる時、智慧の光に照らされ導かれるのです。人類に残された僅かな希望へと。お育ていただくのです。ともに命輝く慈しみの世界を望む私へと。

世の中安穏なれ、仏法ひろまれ
親鸞聖人御消息(しょうそく=お手紙)
合掌

*収容所の子ども達の絵や詩などは「テレジンを語りつぐ会HP」をご覧ください。

*イスラエルの現状は高林寺HP「紛争地を行くパレスチナにて」をご覧ください。