法話

コロナ禍の中で

浄土寺 藤田英範

 💚 8月の法話 💚 

皆様、このコロナ禍の中、如何お過ごしでしょうか。
昨年の初め、中国の武漢が発生源といわれているコロナは初めのうちは人から人へはうつらないという触れ込みで、あまり真剣になっていませんでしたが、またたく間に世界中に、そして日本にも流行し、現在もまだ収束の宣言が出せない状況です。
このような状況のもと、感染者を減少させ、更には収束へ向かう事が期待出来るであろう切り札として、この4月から、医療者関係、高齢者、そして若い方々へとワクチンの接種が始まり、何か光が少し見えてきたかなという状況になりました。


そんな中、私自身6月に第1回目、7月には第2回目のワクチンを接種することが出来ました。


お陰様で、今までは毎日が人からうつされるのではとか、また人にうつすのではないかという不安な暗い気持ちでしたが、これによりリスクが少しは軽減された気持ちになり、今までの暗い気持ちに光が当たったような感じになりました。


仏教では、思い通りにならないこと、自分の都合通りにならないことを「苦」といいます。そしてその「苦」には生・老・病・死という「四苦」があり、この世は「苦界」であると説いています。又、この苦の原因は煩悩にあり、この煩悩を取り除くことが出来れば苦はなくなると教えています。
ちなみに煩悩は①貪欲(欲望、貪りの心)・②瞋恚(怒り、腹立ち)・③愚痴(道理をしらず・無明)の三種があります。


まさに今我々にとってコロナ禍は苦界の真っただ中ではないでしょうか。
そんな中、五木寛之さんの本の中に書かれていた一節をふと思い出しました。

闇夜のなかを重い荷物を担いで手探りで歩いていくなかで、宗教とはその行く手に灯る一点の灯ではないだろうか。
例えば、その険しい山道、右が断崖、左が絶壁で、一歩誤れば落ちてしまうという不安と苦悩のなかで手探りで歩いている中、ひしひしと重い荷物は背中にくいこんで、こういうなかで、月の光のように道を照らしてくれる一条の光が宗教かもしれない。たとえ信仰とか信心とか、そのようなものを得たからといって、生きていく上での苦しみや、悩みや、悲しみがいささかも減るものではない。
しかし夜の山道を歩いているとき、真っ暗のなかで、自分はどこに向かっているのか、どこまで歩いて行けば目的に到達するのか、そして自分の歩いているこの足元は崖っぷちなのか、断崖の際なのか、なにもわからない不安にくらべれば、辿り着く先に集落の灯が見え、
「ああ、あそこまで行けばいいんだな」と思い、あるいは自分の歩いている細い断崖絶壁の山道を一条の月の光が照らしてくれることにより、
「あ、この道を辿っていけばいいんだ」と思う。
背中に背負う重荷は少しも軽くならないし、歩いていく道も少しも近くになるわけではない。
このように苦しみや悩みや悲しみというものが、一向に減るものではないが、そういうものにくじけないで、とにかく歩き続けようという気持ちを持たせてくれるもの、それが宗教ではないか、という内容の本でした。

昔の人が、「人間の一生というものは重い荷物を背負って、長い道のりをとぼとぼと歩くようなものだ」と言っているように、私達は観念的にはわかっていても、なかなかそれを納得して生きていくことが出来ず、苦しみよりも楽しみ、幸せをこれでもかこれでもかと追い求め、挙句の果てそれを得られず苦しんでいます。
ましてや、物事が便利になり、豊かになりお金をだせば得る事が出来るという考えがはびこる時代になりました。

人間の社会は、前へ前へと進歩して行くことを望むもので、宗教はその進歩に対し、一度立ち止まって改めて考えるように働きかけるものではないでしょうか。
苦しい時の神頼みとよく言いますが、自分にとって都合の良いことは、問題にせず、都合が悪くなると宗教を頼ったり、自分の周りのせいにしたりする傾向にあるのではないでしょうか。

前述しましたように、このコロナ禍におかされている苦界の真っただ中の現在一条の光りの灯し手として宗教が人々に寄り添えることを願います