法話

私の中に仏さまを仰ぐ

西方寺 西原大地

 💚 9月の法話 💚 

小説家の平野啓一郎さんという方が『私とは何か「個人」から「分人」へ』(講談社)という新書の中で、仏教の考え方と親しみのある「分人」という言葉をご紹介くださっています。

著書である平野啓一郎さんが学生の頃、「自分探し」という言葉が流行したそうです。しかし、「自分の年齢や置かれた環境に影響されず、一貫した自分などあるのだろうか?」と、読者に対して疑問を投げかけています。

思え返すと、ふと顔がほころんでしまうこんな経験を思い出しました。いつも冗談ばかりでお調子者だった友人が、自分の子どもの前では立派な父親の姿で振る舞っているのです。だからと言って、友人は意図的に父親を演じているわけではないでしょう。私自身、振り返って見ると、環境によって自然と振る舞いを変えている自分に気づかされます。

私の中に一貫したものがなければならないという考えは根深いものですが、実際には友人や仕事場の方々や家族との交流を通して、私の中に複数の顔が育てられていて、この一つ一つの顔を著者は「分人」という言葉で表してくださっています。

著者の仰ることは仏教に近しいものがあるのとはじめに書きましたが、仏教には「無我」という言葉があります。この「無我」という言葉は「私という固定化したものはない」という意味ですが、生物学者の福岡伸一氏によると肉体的に見ても半年経てば分子レベルで全てが入れ替わっているといいます。また私たちが持つ役割や肩書きは生まれ持って備えている特徴ではなく、関係性のうえで語られます。

例えば、バスケットボール選手の中に身長169cmの私が放り込まれれば私の背丈は低いと言えます。また、私は子どもを授かってはじめて親となのることができました。この様に「背丈が低い」という言葉には「背丈が高い方々」、「親」という言葉には「子ども」の存在が含まれているのです。

平野啓一郎さんは著書の中で、分人という言葉を用いて世の中の色々な現象を説明しているのですが、「死者との対話」について大変興味深い考察をなさっています。

「あの人がもし生きていたら、今頃こう言っているのではないか?」というような死者との対話について、平野啓一郎さんは元々抵抗感を持っていました。しかし、分人という言葉のひらめきも手伝って、「死者を語る資格のある方」と「死者を語る資格のない方」がいることに気づいていきます。

「死者を語る資格のない方」が語る言葉とは、故人について余り知りもしない方が語る言葉です。反対に「死者を語る資格のある方」が語る言葉とは、その様に語るその方ご自身の言葉であるとともに、その様に語らせた死者の言葉と見ることもできます。

つまり、死者の存在を私の遠くに眺めていくのではなく、死者と対話する私の言葉の中に死者の存在を認めていくのです。

これは仏さまの仰ぎ方にも通じる話です。お寺で育ち、ご本尊としてご安置されている木像の仏さまに手を合わせる方々の後ろ姿に育てられた影響もあって、仏さまとは私と離れた所にいらっしゃるという思いが以前はありましたが、よくよくご法話を伺っていくと、仏さまとは私を育てる用(はたら)きそのものであることに気づかされます。

「死者を語る資格のある方」の言葉そのものに先立っていった方々の存在を認めていく様に、ご本尊に背を向け法話に耳も貸さなかった私が、仏さまに手を合わせる身へと育てられているこの姿の中に仏さまを仰いでいくのが浄土真宗というみ教えであるとお聞かせ頂くことでありました。