輪廻転生
法話

輪廻転生

常圓寺 井上敬信

 💚 10月の法話 💚 

 今年の西本願寺の安居という勉強会で輪廻転生という論題の問答が行われました。
 輪廻とは車輪のようにぐるぐる回るさま、転生とは生まれ変わる事です。輪廻転生とは迷いの世界を何度も何度も繰り返すことを言います。生まれる前の世界があって、亡くなったあとの世界があるということですが、久しぶりに思い出したことがありました。

 それは「おぎゃあと生まれてから亡くなるまでしか私にはわからない、死んだ後のことなんかわからない」と考えていたこと。前世の記憶もないし、お浄土に生まれた人が「お浄土ってこんなに素晴らしい世界だよ」と帰ってきて言ってくれた人は今まで一人もいない。私のなかで「生きているうちが花、死んだら終わり」また「死んだら無だ」という思いが大学を卒業してお寺に帰ってきてからも、ご法話を聞いていても長いことこの思いのなかでいました。次の世界がある。お浄土があるという考え方は納得いきませんでした。

 このことが自分のなかで落ち着いたのは、ある法話の中で、「人間の生まれる、亡くなるということは、入学式と卒業式の関係ではないだろうか」と話されたことでした。私たちの世の中は例えば6歳になると小学校の入学式がある。6年たつと卒業式がある。それで終わりではなく、今度は中学校の入学式がある。3年たつと卒業式がある。物事が始まるときには必ず終わりがある。終りの状態でとどまっているものは何一つなく、終りには必ずはじまりがある。人間の生まれる、亡くなるだけそのままになると考える必要はないのではないでしょうか、と言われたときにそう考えていいのだと少し楽になりました。

『仏説阿弥陀経』の中に「倶会一処」という言葉があります。ともに一つのところで会す。一処とはお浄土を指しますので、「またお浄土であいましょう」という意味になります。
先立って往かれた人に会える世界が広がっている。また往生させていただいたなら あとから続く方にも会える世界が広がっている。亡くなっていく人に「先に行って待っててね」「またね」と送り出すことができる。死んだら終わりと考えていた時には私は死んだら価値がないものになるんだと思っていましたが、そうではない阿弥陀様が私を仏にする人生をくださってたんだと気づかされた時にすごくうれしくなりました。

 『歎異抄』に親鸞聖人が常におっしゃられていた言葉として「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。されば、それほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」とお示しであります。私という人間をどうすれば仏にしあげることが出来るのかと五劫という大変な年月考えられて、先手先手で動いてくださって、今お念仏として私に常に寄り添ってくださっている。永らく迷いの中にいた私を仏にするぞと常に働いて下さっていた阿弥陀様がいました。死んだら終わりの人生ではなく仏になる人生を阿弥陀様と共に歩んでいきたいと思ったことを思い出しました。