法話

忙しさのなかにも手をあわす生活を

中原寺 平野俊斉

💚 2月の法話 💚

 先日、家に携帯電話を忘れて外出してしまいました。携帯電話があるのが当たり前の生活になってしまった現在、「誰かから電話がかかってきてはいないだろうか」「急な連絡が入ってはいないだろうか」と、外出中もどこか落ち着きません。
 電車に電車に乗って改めて周りを見ていると、携帯電話で友だちと連絡を取り合ったり、ゲームをしたり、パソコンで仕事をしたりと、それぞれに忙しそうです。
 「便利なものが増えながら、忙しい」とはよく言ったもので、便利な道具ができたから時間に余裕ができたかといえば、決してそんなことはなく、むしろ忙しくなっているのではないでしょうか。
 「忙」とは「心」が「亡くなる」と書きますが、最近ニュースを見ていると、50年100年前と比べて、物質的な豊かさを手に入れながらも「心が亡くなっている と思えるような事件が多くなってきているように感じます。
 

 以前、読んだ本にこのようなことが書いてありました。
 「一日しあわせになりたければ、理髪店に行きなさい」
 確かに理髪店に行って、髪を切り、丁寧に洗ってもらい、ひげを剃ってもらうと本当に心も体もスッキリとした気分になります。家にかえってきてもサッパリとした気持ちのまま、一日を過ごすことができます。でもそれも一日たつと忘れてしまいます。
 「一週間しあわせになりたければ、結婚しなさい」
 こちらは個人差があるかとは思いますが、結婚して周囲に祝福をされて人生の絶頂のように思っても、一週間すると相手の欠点も見えてきてしまうということでしょうか。
 「一か月しあわせになりたければ、馬を飼いなさい」
 馬に乗ればお殿様にでもなったようにいい気分を味わえるのでしょう。しかも馬は人間のように文句を言いませんしね。しかしエサをあげたり糞の始末など苦労も多く、一か月で限界を迎えてしまうのでしょう。
 「一年間しあわせになりたければ、新しい家を建てなさい」
 新築の家というものは本当に気持ちがいいものですね。それも自分の家であるならば喜びも格別でしょう。ですが、一年もたてば慣れてしまい、その喜びも薄れていくというのです。
 ここからが本筋なのですが、
 「一生しあわせになりたければ、合掌のこころをもった人になりなさい」
 合掌のこころとは、すべてのものに感謝をして、手を合わせて、敬いの気持ちで接していく心です。私がいま私であるためには、量り知れないご縁のつながりによって生かされている「いのち」であると気づかされ、感謝の生活をおくるということでしょう。
 しあわせとは「幸せ」とよく書きますが、「仕合わせ」とも書きます。「仕」とは「めぐる」という意味ですから、仕合わせとは「めぐり合わせ」ということです。
 このめぐり合わせ(ご縁)に気づかせていただくのが、仏さまのおこころをいただくということです。
 幸せだから感謝するのではない、感謝できる心をもつことこそが幸せなのであります。