法話

浄土真宗のみ教えをいただく

               常圓寺 井上敬信

💚 月の法話 💚

浄土真宗のみ教え

   南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)
  「われにまかせよ そのまま (すく) う」の  弥陀(みだ) のよび (ごえ)
   (わたし) の 煩悩(ぼんのう)と (ほとけ)のさとりは  本来(ほんらい) (ひと) つゆえ
  「そのまま (すく) う」が  弥陀(みだ) のよび (ごえ)
  ありがとう といただいて
  この 愚身() をまかす このままで
   (すく) い () られる  自然(じねん)の 浄土(じょうど)
  仏恩報謝(ぶっとんほうしゃ)の お 念仏(ねんぶつ)

  み (おし) えを ()りどころに ()きる (もの) となり
   (すこ)しずつ  (とら)われの (こころ)を  (はな)れます
   ()かされていることに  感謝(かんしゃ)して
  むさぼり いかりに  (なが) されず
   (おだ)やかな (かお)と  (やさ)しい 言葉(ことば)
   (よろこ) びも  (かな) しみも  ()かち ()
   日々(ひび)に  精一杯(せいいっぱい) つとめます

 2021年4月の春の法要で「浄土真宗のみ教え」が発布されました。その中で最初この言葉をどう理解したらよいのかがわからなかった言葉が「私の煩悩と仏のさとりは 本来一つゆえ「そのまま救う」が弥陀のよび声」という言葉でした。

 親鸞聖人は私たち生きとし生けるもののことを「凡夫」と言われました。『一念多念文意』に「「凡夫」というのは、わたしどもの身には無明煩悩が満ちみちており、欲望も多く、怒りや腹立ちやそねみやねたみの心ばかりが絶え間なく起り、まさに命が終ろうとするそのときまで、止まることもなく、消えることもなく、絶えることもない(現代語訳)」
と言われます。つまり私には煩悩しかなく、仏になる要素は何もないということです。
 それに対して「私の煩悩と仏のさとりは本来一つゆえ」とあり、「本来一つ」とある。本来とはもともと、当然そうあるべきことという意味です。ですから「私の煩悩と仏のさとりはもともと一つの事柄である」ということ、先の文章と齟齬が生じるように感じました。
 この「私の煩悩と仏のさとりは 本来一つゆえ」の文拠は『高僧和讃』曇鸞讃に「本願円頓一乗は 逆悪摂すと信知して 煩悩・菩提体無二と すみやかにとくさとらしむ」にあり、煩悩・菩提体無二の『浄土真宗聖典』註釈版の語句説明に「煩悩と菩提とが本来一つであること」とあります。和讃のこころは「阿弥陀如来の選択本願、円融満足されており、速やかにすべてのものを仏にいらしめる法は、五逆のもの悪人でさえもすべて救い取ると信知して、仏様から見れば私の煩悩と悟りの世界は分けへだつものではなく、すみやかにさとりに入らしめるのである(井上訳)」です。
 教学の上で、約仏・約生という言葉があります。約仏とは仏様側からの見方、約生とは約衆生のことで凡夫、私たちの側から見た見方ということです。
 あくまで約生、私たち衆生が自分自身の内面を見つめるならば、悟りの道など何一つもない、地獄落ちの道しかないものとしか言えません。しかし仏様の約仏の側で私たちをみていくならば、すべてのものが尊く、かけがえのないものであり仏となんら変わるもののない存在とみられるのです。
 ですから、「「私の煩悩と仏のさとりは 本来一つゆえ そのまま救う」が弥陀のよび声」が私にとってはしっくりくる文章であります。
 私のために阿弥陀様は五劫という大変長い間考え抜き、兆載永劫という御修行をなされて仏になられました。同じ曇鸞讃に「罪障功徳の体となる こほりとみづのごとくにて こほりおほきにみづおほし さはりおほきに徳おほし」とあります。「罪やさわりがそのまま功徳の本体になる 氷と水のようで 衆生の煩悩が多ければ多いほど 仏の功徳が多くなっていくのである」ということです。衆生をみそなわして「そのまま救う」と阿弥陀様はおっしゃいました。それを「他力本願」というのであります。

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