キングダムを読みながら考えた2
専念寺 阿形雄三
💚 12月の法話 💚
『キングダム』(19巻202話) 羌瘣の台詞引用
「私は地に足がついていない。だからお前達みたいに前に進めていない。それはやっぱり象姉の仇を討ってないからだ。(略)信、お前が言ったように仇討ちの先には道が続いている。じゃないと外を夢見ていた象姉もうかばれないし、私自身もそう願っている。でもやっぱり私のその道は象姉の仇討ちの先に広がっているんだ。だから、この戦が終わったら、私は飛信隊を出て行く。何か月、何年かかるか分からないけど、きっちり仇を討つ。そして、それが終わってまた帰ってきたら、その時は私もちゃんとお前達と一緒に前に進めると思う」
『キングダム』の登場人物、羌瘣には、自身より大切と思い合える存在、姉のように慕う羌象がいた。二人は「祭」と呼ばれる儀式(殺し合い)に出ることになり、羌瘣は羌象のために死のうと決意していたが、羌瘣と戦いたくない羌象は二人用の罠にかかり殺害される。生き残った羌瘣は、後悔と自責の念にとらわれたまま主人公信達に出会い、改めて自分の執着にけりをつけなくてはと決意する。それが冒頭の台詞である。
かけがえのないその人を助けることが出来なかったという後悔や自責の念にとらわれてしまうと、その執着とけりをつけない限り、「地に足がついていない」、「前に進めていない」生き方、もっと言えば、本当の意味で生きていないことになってしまう。
同様の苦しみを抱えていた仏弟子に、目連がいる。神通第一と言われた目連は、天眼通を得て亡き母を探したところ、餓鬼となり苦しむ姿が見えたという。目連の母は、当時常識だった修行者への供養を行わず、死後が餓鬼になったと目連には見えたが、そこには母の生き様を変えることが出来ず、その結果、苦しむ母を救うことが出来なかったという後悔や自責の念にとらわれて「前に進めていない」目連の姿がある。
釈尊にも多種多様な執着がおありになったが、それと向き合い、けりをつけていかれた。中でも有名なのは、「梵天勧請」である。その時、釈尊には二つ、選択できる道があった。一つは、娑婆(世間)への無関心、断絶を貫く道であり、釈尊の心はこちらに傾いていた。それを知った娑婆の主たる梵天は、釈尊の元に現れて、再考を懇願する。それで改めて世間を熟視された釈尊は翻意し、もう一つの道、世間と関わり、つながる道を選択される。ここまでの釈尊の歩みを「自利」、ここからの歩みを「利他」という。
『キングダム』には、釈尊が選択されなかった世間への無関心の道を歩む人物が二人登場する。一人は『武神』龐煖、もう一人が羌象の仇、「蚩尤」幽連である。
仇討ちで幽連と対決した羌瘣は、一度は打ち負かされ、失意の内に生きることをあきらめようとする。しかし、その時、「うったえる光を見た。それが本当に究極なのかと」(34巻362話)。その光が次第に大きくなった時、羌瘣には信達「私を外とつなぎとめる連中」(同363話)の姿が見え、その光に支えられ、励まされ、再起した羌瘣は幽連を倒す。
話を目連に戻すと、目連は釈尊に相談し、安居供養を行うことにより、自らの執着にけりをつけた。
「皆と共に修羅場をぐぐりなさい」(16巻172話)
これは王騎から信への遺言である。
釈尊も目連も羌瘣も、自らの執着から解放されて、先に続く道へ進むことが出来た。しかし、その過程は文字通り「修羅場」である。そして、その修羅場は、他者への無関心、断絶によってけりをつけことは出来ない。そのためには、他者と関わり、つながって「皆と共に修羅場をくぐり」ながら、自を支え、励まし、導いてくれる光に出会う必要がある。
阿弥陀さまの光に導かれている。そのことに気づかされ、支えられ、励まされながら、往生の道をませていただきましょう。
語句説明
キングダム=週刊ヤングジャンプにて連載中 中国戦国時代の秦が舞台の漫画
羌瘣=飛信隊の副隊長
信 =飛信隊の隊長