法話

食前の言葉 食後の言葉

常圓寺 井上敬信

💚 3月の法話  💚

浄土真宗では食事をする前と後に食前の言葉、食後の言葉をみなで唱えて食事を頂きます。

食前の言葉  多くのいのちと、みなさまのおかげにより、このごちそうをめぐまれました。

       深くご恩を喜び、ありがたくいただきます。

食後の言葉  尊いおめぐみをおいしくいただき、ますます御恩報謝につとめます。

       おかげで、ごちそうさまでした。

「いただきます」「ごちそうさま」と声をかけて食事をするのです。
 ある人からこういう話を聞きました。
 ファミレスに行ったときに、子連れの夫婦が席に着きました。メニューを見て、自分の食べたいものを注文して、料理が到着した時に子供が「いただきます」と言いました。すると母親が「今日はお店の人が作って、お金を払っているのだから いただきますはいらないよ」と言いました。
 このお母さんにとっては 作った私に感謝をする言葉が「いただきます」だったのでしょう。また お金=料理への代価が支払われているから いらないといったのでしょう。でもそれは お店の人や、流通にかかわった人、生産者への対価であって、その食への対価ではありません。「いただきます」は いのちへの感謝の思いであります。
 昔ある先生に聞いた話です。幼稚園で法話をするように招かれて、まだ時間があったので、園長先生にお断りをして 園児のクラスの様子を見学していたそうです。その時に先生がみんなに食べ物ってどんなものがあるとたずねたそうです。園児からは「おにく」「おこめ」「うし」「にわとり」「にんじん」といろいろなものが出たそうです。すると先生は「おにく」のとなりに「さん」とつけ、「おこめ」のとなりに「さん」をつけ、みんながあげていったものすべてに「さん」をつけて黒板に書いたそうです。そしてみんなで続けてねといって「おにくさん、おこめさん、うしさん……有難う、いただきます。」と言ったそうです。その時感動して「私の話はいらん、あの先生に話をしてもらうがいい」とおっしゃったそうです。いのちそのものへの感動がそこにありました。お米という言葉には 母から八十八もの手間がかかっているからお米というのだよとおそわりました。それぞれのいのちに敬意を表する。手を合わし感謝する。
 「いただく」とは頂くということです。頂には頂上や山頂というように もののてっぺんという意味です。自分よりも上に見るように高く評価することです。めぐまれたいのちと苦労を当たり前とせずに感謝をする。その言葉を「いただきます」を言います。
 また食後の言葉には「ごちそうさま」と言います。馳走という漢字が当てはまりますが、両方ともはしるという意味で、かけめぐるということです。もともとただ単に駆け巡るという意味だったのを その食事の準備のために多くの方が走りまわってご用意してくださったということで、客をもてなすこと、その料理のことを「馳走」というようになりました。食後の言葉は その馳走に頭に丁寧語の「ご」をつけ、また後に尊敬の意をあらわす「様」を付けてごちそうさまといいます。
 日本語の表記の中でご〇〇様、お〇〇様という表現は結構あります。お疲れ様、ご苦労様、お気の毒様、ご愁傷さま等です。日本語の文法において二重敬語はよくないと言われていますが、その事象に対して敬意を払っても払いきれないことを表現していったのだと思います。
 食後のことばには「ますます御恩報謝につとめます」とあります。御恩報謝とは うけたご恩に対し、感謝をし、報いようとすることです。なされたことを当たり前とするのではなく「いのち」の重み、生産者、物流、多くの関わっている方に感謝し、自分も社会の一員として何が出来るかを考え、していくことです。また浄土真宗的にはこの私を支えてくださる阿弥陀様に思いを寄せることでもあります。「生かされている」いのち、それを大切にあじあうことが 食前の言葉、食後の言葉であります。

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