住職の後生の一大事③
照光寺 脇本正範
💚 8月の法話 💚
悟りの世界から出てきた言葉以外は人を助けないのです。いっときは ごまかせても助かりません。恐怖心が再燃します。また、知ったかぶりする人の言葉は不安や迷いが助長されます。死んでもいないのに 死んだあとの世界が有るとか無いとか言わない方が良いでしょう。その言葉を聞くと恐怖心が刺激されます。安らぎは生まれません。
とどのつまり、死の恐怖をくぐりぬけていない、助かってない人の言葉や態度は助けにならないということです。人間が助かるためには 阿弥陀如来の本当の言葉を聞いた人、助かった人の言葉を聞く方法でしか助からないのです。こちらも痛切なる実感です。人が語る言葉の中で一番良くないのは 老病死に関する嘘です。誰も助かりません。他人に「死んだら何もなくなるんだ」と騙る人がいますが 本当に何もなくなるのでしょうか。みんなが無くなるからと言って 本当に無くなる証拠にはなりません。みんなが言っているから確かだろうという 共同幻想です。確かめようがないので わからないというのが本当です。「死んだら終わりだ」ということも 自分自身死んだことがないのですから あるのかないのか 終わるのか終わらないのかわからないはずです。わからないことや不確かなことを騙っても 安らぐはずがないではありませんか。
真理に裏打ちされた「言葉の言葉」でないと本当の安らぎを生み出す力がないのです。何も内容の入っていない空っぽの言葉は 人の口から出た瞬間になくなってしまいます。役割を終えた言葉は すぐに消えてなくなります。
大峯顕和上は「一度も死んだことがないのに 死んだ後の世界が有るとか無いとか言うな」とはっきりとお話しでした。
梯実円和上も「死んだあと何も無いと言えるのは よっぽど修行を積んだ人(阿羅漢の悟りを開いた人だけ)です」と言っています。その言葉を聞かないと 自分勝手にこしらえた幻想の世界が打ち砕かれることはありません。阿弥陀如来の言葉を聞き 本当の安らぎの中で生きる人のお言葉を 自分自身のこころの根底に据えてみてください。この世が 光かがやいてみえるかもしれません。
これまでの伝道で「そんな話しは酔狂だ!」と怒ってお帰りになられたケースがありますので 誤解無く伝わったかどうか心配になります。いまの私なら酔狂だと言うこころが酔狂だと言えるのですが いかがでしょう。
酔狂だというこころのまま、酔狂だと思い続け、間違っていないと自分に言い聞かせ 阿弥陀如来の言葉をはねつけ「死にたくない」と思っている。そのような心を地獄といいます。毎日、酔狂だ、酔狂だと自分のこころに言い聞かせているのですから 安心しようがないではありませんか。死んだら無になるも同じですが 強情な気持ちで助からない言葉を言い聞かせるくらいなら 大丈夫と称えたほうがずっと良いです。誰の言葉を信じているのか自問自答した方が良いでしょう。たいてい自分のこしらえたこころのまま 助かったという思いを抱かずに死んでいくだけです。
安心して終わりたいという人間本来の欲求を 自分自身が助かってないからといって否定する必要はありません。
浅原才市(安楽寺門徒・島根県温泉津)さんの詩
才一よ。へえ。今日はどんな話しを聞いた。へえ。安楽寺の和上さんの話しを聞きました。そうじゃあるまい。へえ。蓮如聖人の話しでありました。そうじゃあるまい。へえ。弥陀の直説なむあみだぶつでありました。南無阿弥陀仏
阿弥陀如来から直接聞いたと喜んでいます。「おまえ仏になるぞ」とじきじきに言ってもらった喜びを訴える詩です。
お念仏の人は 先立たれた人が仏さまになったことを知っているので 死別の後、死後の世界に行ったのではなく 仏さまになっていつでもどこでもわたしといっしょというこころを持っています。真理に生かされているよろこびと本当の安らぎが恵まれます。
阿弥陀如来の言葉の処方箋