法話

6月法話「たとへば一人にして七子あらん」

西方寺 西原大地

讃題
たとへば一人にして七子あらん。この七子のなかに一子病に遇へば、父母の心平等ならざるにあらざれども、しかるに病子において心すなはちひとへに重きがごとし。大王、如来もまたしかなり。
内容
冒頭に掲載した『涅槃経』の一節は、浄土真宗における救いの論理を示すお言葉であり、親鸞聖人は主著『教行信証』に引用されています。
この言葉に到る背景について述べますと、お釈迦が生きた古代インドにおいて、最も強大な国であったマガダ国を統治していた王族の中でクーデターが起こります。
事の発端はこの物語の主人公である阿闍世王子が、ある人物からご自身の出生の秘密を知らされる事にはじまります。それは、阿闍世王子の父である頻婆娑羅王が、高い楼閣から阿闍世を生み落とし殺すように、ご自身の妃、つまり阿闍世王子の母に命じたことがあった、というものでした。
自分の出生の秘密を知った阿闍世王子は激昂し、父親である頻婆娑羅王を牢屋に幽閉し死に至らしめてしまうのですが、父を失ってはじめて後悔の念が生じ、心の痛みが影響して、悪臭を放つ腫れ物に全身が覆われます。
深い後悔と罪に悩む心から現れた熱病に苦しむ、マガダ国の新たな王となった阿闍世のもとへ、六人の大臣がそれぞれ医者へ伴って現れますが、いずれの大臣も「父を殺した阿闍世王には何の罪もない」と告げるだけで、気休めにはなっても真の解決には至りません。
そこで、信頼のおける耆婆という臣下の勧めよって出会ったのが、お釈迦さまという方でした。お釈迦さまは阿闍世の心の痛みを解決するにあたって、まず全身に広がった腫れ物を治癒します。
全身に広がった腫れ物が引いてく事に驚いた阿闍世王は、お釈迦さまに会う事を勧めてくださった耆婆に対して阿闍世王は「如来は、なぜ私のようなものに会ってくださり、心配してくれるのであろうか」と尋ねます。
今このような苦しみを受ける状況をつくり出したのは、自分自身の落ち度であるといった思いが阿闍世の中にあったのでしょう。その問いに対して答えられた耆婆の言葉が、冒頭の法語です。
たとえば、一人の親に、七人の子供がいたとしましょう。その七人のうちで、一人が病気になれば、親の慈しみの心は一様に全ての子どもに行き届いていますが、その病気の子をとくに心配するようなものです。王さま、如来もまたその通りです。あらゆる衆生を平等に見ておられますが、罪あるものに対して、とくに心をかけてくださるのです。
……と、このように仰います。この場面は、最も苦しみ悩みをかかえ悟りから遠い者を救いの対象としてはたらいていく阿弥陀如来の慈しみの心を表しています。
このように阿弥陀さまのお心は、数々の競争を勝ち抜いてきたものを抱き取っていくような論功行賞の救いではありません。このことをもう少し身近に感じて頂くために、もう一つ事例をご紹介しましょう。
法政大学で教鞭を取り、中小企業の経営や障害者の雇用といった分野を専門となさる坂本光司先生という方が『日本でいちばん大切にしたい会社』という書籍を執筆してくださっていて、その中で、ファンケルスマイルという会社が紹介されています。
化粧や健康食品の通信販売を行っているファンケルという会社をご存知の方もいらっしゃると思いますが、そのファンケルが社会貢献のために立ち上げたのが、ファンケルスマイルです。
「一人でも多くの人に働く喜びを感じて欲しい」という理念を掲げ、この会社に雇用される方々の90%が、ダウン症や自閉症など何かしらの諸事情を抱えています。
この会社には全国の養護学校から「うちの学校に通う生徒を採用して欲しい」という願い出が来るのですが、全ての方を受け入れる事が現実に難しく、時には厳しい選択を迫られる時があります。
ある時、養護学校から「三人の生徒を派遣しますのでそちらで選んでください」と言われ、面接を行い、その内の一人だけを採用しなければならないということがありました。
養護学校の先生も生徒のご両親も、ファンケルスマイルの面接を受けた学生の中で最も円滑に仕事が出来るA子さんが採用されるだろうと思っていました。つまり、より均等にチャンスを与え、能力あるものが選別されていくという、機会の平等を前提にした考え方です。
そうした中、ファンケルスマイルが採用したのは、自閉症の症状が重く、実際に採用されてから半年間から一年間、誰ともコミュニケーションが取れなかったC子さんでした。
きっかけは一人の社員のこんな言葉でした。
「私はC子さんを採りたい。なぜなら、A子さんやB子さんは、わが社が採用しなくても、きっとどこかの会社で採用してくれるはずです。しかし、C子さんは、わが社が今日、ここで採用しなければ、働く機会を永遠に失ってしまうかもしれません。働く喜びと、働く幸せを知らないまま、C子さんは息を引き取ってしまいます。そういう子のためにこそ、わが社が存在しているんじゃないですか……」
この言葉を聞いて社長を含む社員一同、我れに返りC子さんを採用することにしたという話が『日本でいちばん大切にしたい会社』という書籍の中で紹介されていました。
これが、もっとも苦しみや悩みをかかえながらしか歩むことが出来ない者にはたらいていこうとする救いの精神です。
親鸞聖人は、その慈しみの心をもった阿弥陀如来という仏さまが、悟りに至る能力のない我が身に届いてくださっていることを喜ばれていったのでした。

讃題
たとへば一人にして七子あらん。この七子のなかに一子病に遇へば、父母の心平等ならざるにあらざれども、しかるに病子において心すなはちひとへに重きがごとし。大王、如来もまたしかなり。
内容
冒頭に掲載した『涅槃経』の一節は、浄土真宗における救いの論理を示すお言葉であり、親鸞聖人は主著『教行信証』に引用されています。
この言葉に到る背景について述べますと、お釈迦が生きた古代インドにおいて、最も強大な国であったマガダ国を統治していた王族の中でクーデターが起こります。
事の発端はこの物語の主人公である阿闍世王子が、ある人物からご自身の出生の秘密を知らされる事にはじまります。それは、阿闍世王子の父である頻婆娑羅王が、高い楼閣から阿闍世を生み落とし殺すように、ご自身の妃、つまり阿闍世王子の母に命じたことがあった、というものでした。
自分の出生の秘密を知った阿闍世王子は激昂し、父親である頻婆娑羅王を牢屋に幽閉し死に至らしめてしまうのですが、父を失ってはじめて後悔の念が生じ、心の痛みが影響して、悪臭を放つ腫れ物に全身が覆われます。
深い後悔と罪に悩む心から現れた熱病に苦しむ、マガダ国の新たな王となった阿闍世のもとへ、六人の大臣がそれぞれ医者へ伴って現れますが、いずれの大臣も「父を殺した阿闍世王には何の罪もない」と告げるだけで、気休めにはなっても真の解決には至りません。
そこで、信頼のおける耆婆という臣下の勧めよって出会ったのが、お釈迦さまという方でした。お釈迦さまは阿闍世の心の痛みを解決するにあたって、まず全身に広がった腫れ物を治癒します。
全身に広がった腫れ物が引いてく事に驚いた阿闍世王は、お釈迦さまに会う事を勧めてくださった耆婆に対して阿闍世王は「如来は、なぜ私のようなものに会ってくださり、心配してくれるのであろうか」と尋ねます。
今このような苦しみを受ける状況をつくり出したのは、自分自身の落ち度であるといった思いが阿闍世の中にあったのでしょう。その問いに対して答えられた耆婆の言葉が、冒頭の法語です。
たとえば、一人の親に、七人の子供がいたとしましょう。その七人のうちで、一人が病気になれば、親の慈しみの心は一様に全ての子どもに行き届いていますが、その病気の子をとくに心配するようなものです。王さま、如来もまたその通りです。あらゆる衆生を平等に見ておられますが、罪あるものに対して、とくに心をかけてくださるのです。
……と、このように仰います。この場面は、最も苦しみ悩みをかかえ悟りから遠い者を救いの対象としてはたらいていく阿弥陀如来の慈しみの心を表しています。
このように阿弥陀さまのお心は、数々の競争を勝ち抜いてきたものを抱き取っていくような論功行賞の救いではありません。このことをもう少し身近に感じて頂くために、もう一つ事例をご紹介しましょう。
法政大学で教鞭を取り、中小企業の経営や障害者の雇用といった分野を専門となさる坂本光司先生という方が『日本でいちばん大切にしたい会社』という書籍を執筆してくださっていて、その中で、ファンケルスマイルという会社が紹介されています。
化粧や健康食品の通信販売を行っているファンケルという会社をご存知の方もいらっしゃると思いますが、そのファンケルが社会貢献のために立ち上げたのが、ファンケルスマイルです。
「一人でも多くの人に働く喜びを感じて欲しい」という理念を掲げ、この会社に雇用される方々の90%が、ダウン症や自閉症など何かしらの諸事情を抱えています。
この会社には全国の養護学校から「うちの学校に通う生徒を採用して欲しい」という願い出が来るのですが、全ての方を受け入れる事が現実に難しく、時には厳しい選択を迫られる時があります。
ある時、養護学校から「三人の生徒を派遣しますのでそちらで選んでください」と言われ、面接を行い、その内の一人だけを採用しなければならないということがありました。
養護学校の先生も生徒のご両親も、ファンケルスマイルの面接を受けた学生の中で最も円滑に仕事が出来るA子さんが採用されるだろうと思っていました。つまり、より均等にチャンスを与え、能力あるものが選別されていくという、機会の平等を前提にした考え方です。
そうした中、ファンケルスマイルが採用したのは、自閉症の症状が重く、実際に採用されてから半年間から一年間、誰ともコミュニケーションが取れなかったC子さんでした。
きっかけは一人の社員のこんな言葉でした。
「私はC子さんを採りたい。なぜなら、A子さんやB子さんは、わが社が採用しなくても、きっとどこかの会社で採用してくれるはずです。しかし、C子さんは、わが社が今日、ここで採用しなければ、働く機会を永遠に失ってしまうかもしれません。働く喜びと、働く幸せを知らないまま、C子さんは息を引き取ってしまいます。そういう子のためにこそ、わが社が存在しているんじゃないですか……」
この言葉を聞いて社長を含む社員一同、我れに返りC子さんを採用することにしたという話が『日本でいちばん大切にしたい会社』という書籍の中で紹介されていました。
これが、もっとも苦しみや悩みをかかえながらしか歩むことが出来ない者にはたらいていこうとする救いの精神です。
親鸞聖人は、その慈しみの心をもった阿弥陀如来という仏さまが、悟りに至る能力のない我が身に届いてくださっていることを喜ばれていったのでした。

讃題
たとへば一人にして七子あらん。この七子のなかに一子病に遇へば、父母の心平等ならざるにあらざれども、しかるに病子において心すなはちひとへに重きがごとし。大王、如来もまたしかなり。
内容
冒頭に掲載した『涅槃経』の一節は、浄土真宗における救いの論理を示すお言葉であり、親鸞聖人は主著『教行信証』に引用されています。
この言葉に到る背景について述べますと、お釈迦が生きた古代インドにおいて、最も強大な国であったマガダ国を統治していた王族の中でクーデターが起こります。
事の発端はこの物語の主人公である阿闍世王子が、ある人物からご自身の出生の秘密を知らされる事にはじまります。それは、阿闍世王子の父である頻婆娑羅王が、高い楼閣から阿闍世を生み落とし殺すように、ご自身の妃、つまり阿闍世王子の母に命じたことがあった、というものでした。
自分の出生の秘密を知った阿闍世王子は激昂し、父親である頻婆娑羅王を牢屋に幽閉し死に至らしめてしまうのですが、父を失ってはじめて後悔の念が生じ、心の痛みが影響して、悪臭を放つ腫れ物に全身が覆われます。
深い後悔と罪に悩む心から現れた熱病に苦しむ、マガダ国の新たな王となった阿闍世のもとへ、六人の大臣がそれぞれ医者へ伴って現れますが、いずれの大臣も「父を殺した阿闍世王には何の罪もない」と告げるだけで、気休めにはなっても真の解決には至りません。
そこで、信頼のおける耆婆という臣下の勧めよって出会ったのが、お釈迦さまという方でした。お釈迦さまは阿闍世の心の痛みを解決するにあたって、まず全身に広がった腫れ物を治癒します。
全身に広がった腫れ物が引いてく事に驚いた阿闍世王は、お釈迦さまに会う事を勧めてくださった耆婆に対して阿闍世王は「如来は、なぜ私のようなものに会ってくださり、心配してくれるのであろうか」と尋ねます。
今このような苦しみを受ける状況をつくり出したのは、自分自身の落ち度であるといった思いが阿闍世の中にあったのでしょう。その問いに対して答えられた耆婆の言葉が、冒頭の法語です。
たとえば、一人の親に、七人の子供がいたとしましょう。その七人のうちで、一人が病気になれば、親の慈しみの心は一様に全ての子どもに行き届いていますが、その病気の子をとくに心配するようなものです。王さま、如来もまたその通りです。あらゆる衆生を平等に見ておられますが、罪あるものに対して、とくに心をかけてくださるのです。
……と、このように仰います。この場面は、最も苦しみ悩みをかかえ悟りから遠い者を救いの対象としてはたらいていく阿弥陀如来の慈しみの心を表しています。
このように阿弥陀さまのお心は、数々の競争を勝ち抜いてきたものを抱き取っていくような論功行賞の救いではありません。このことをもう少し身近に感じて頂くために、もう一つ事例をご紹介しましょう。
法政大学で教鞭を取り、中小企業の経営や障害者の雇用といった分野を専門となさる坂本光司先生という方が『日本でいちばん大切にしたい会社』という書籍を執筆してくださっていて、その中で、ファンケルスマイルという会社が紹介されています。
化粧や健康食品の通信販売を行っているファンケルという会社をご存知の方もいらっしゃると思いますが、そのファンケルが社会貢献のために立ち上げたのが、ファンケルスマイルです。
「一人でも多くの人に働く喜びを感じて欲しい」という理念を掲げ、この会社に雇用される方々の90%が、ダウン症や自閉症など何かしらの諸事情を抱えています。
この会社には全国の養護学校から「うちの学校に通う生徒を採用して欲しい」という願い出が来るのですが、全ての方を受け入れる事が現実に難しく、時には厳しい選択を迫られる時があります。
ある時、養護学校から「三人の生徒を派遣しますのでそちらで選んでください」と言われ、面接を行い、その内の一人だけを採用しなければならないということがありました。
養護学校の先生も生徒のご両親も、ファンケルスマイルの面接を受けた学生の中で最も円滑に仕事が出来るA子さんが採用されるだろうと思っていました。つまり、より均等にチャンスを与え、能力あるものが選別されていくという、機会の平等を前提にした考え方です。
そうした中、ファンケルスマイルが採用したのは、自閉症の症状が重く、実際に採用されてから半年間から一年間、誰ともコミュニケーションが取れなかったC子さんでした。
きっかけは一人の社員のこんな言葉でした。
「私はC子さんを採りたい。なぜなら、A子さんやB子さんは、わが社が採用しなくても、きっとどこかの会社で採用してくれるはずです。しかし、C子さんは、わが社が今日、ここで採用しなければ、働く機会を永遠に失ってしまうかもしれません。働く喜びと、働く幸せを知らないまま、C子さんは息を引き取ってしまいます。そういう子のためにこそ、わが社が存在しているんじゃないですか……」
この言葉を聞いて社長を含む社員一同、我れに返りC子さんを採用することにしたという話が『日本でいちばん大切にしたい会社』という書籍の中で紹介されていました。
これが、もっとも苦しみや悩みをかかえながらしか歩むことが出来ない者にはたらいていこうとする救いの精神です。
親鸞聖人は、その慈しみの心をもった阿弥陀如来という仏さまが、悟りに至る能力のない我が身に届いてくださっていることを喜ばれていったのでした。