法話

リベラルアーツと浄土真宗

西方寺 西原大地

💚 7月の法話 💚

2021年2月26日、地域ごとに組織される青年僧侶の団体がオンライン上に集って研修会が開催されました(浄青僧全国大会)。その中で、印象に残ったのは、東京工業大学リベラルアーツ研究教育院所属し、『がんばれ仏教!』(NHKブックス)の著者でもある上田紀行氏の講演内容です。

「教養」と訳される事の多いリベラルアーツという言葉ですが、上田氏はこの言葉を「自由にする技」と講演の中で定義しています。この言葉が生まれたギリシャ時代には、自由市民と奴隷という二つの立場がありました。自由市民はポリスと言われる共同体をどの様に導いていくのか議論し、奴隷は自由市民が考えたことを唯々遂行するのです。奴隷と言うと「鞭で打たれている人」という印象が強いですが、そうではありません。上司の命令に従う会社員の様な存在だと、上田氏は言います。

続けて、上田氏はリベラルアーツの必要性を感じ取る事が出来るこんな事例を紹介してくださいました。東工大の学生にレポートの課題を課すと「そのレポートの評価軸はどこでしょうか?」という質問が、必ずと言っていいほど出るそうです。東工大の学生は頭脳明晰なので、示された評価軸を狙った様な最適解のレポートが提出されますが、この様な状況は自由市民たり得ているのか、評価通りに実行する頭の良い奴隷をどんどん生み出しているのではないかという危機感が、リベラルアーツの提唱につながったのだと言います。

ここからがこの講義のクライマックスの部分ですが、仏教こそが最高のリベラルアーツではないかと上田氏は語ります。現在の僧侶は、地域の方々や門信徒の方々にどの様に見られているのかといった様に周囲の目を気にする方が多くいますが、本来、阿弥陀如来の救いはその様なしがらみを解放してくださるはたらきがあります。世界が戦争に向かおうとも、強者が弱者を虐めようとも、世間からの同調圧力がかかる中で、それは人間としてするべきではないと主張する基盤になり得るものが仏教にはあるとご講演くださいました。

この話を伺って感じたのは、仏教及び浄土真宗のみ教えは、私たちが生きるうえでの行動指針となる様な絶対的な物差しを与えてくださるという単純な話ではなく、常に自分自身の生き方を問い続ける視座を与えてくださるのだろうということです。

この様な視点を真宗大谷派の僧侶である瓜生崇氏は著書『なぜ人はカルトに惹かれるのか-脱会支援の現場から』(法蔵館)の中で、み教えが私たちに「揺らぎ」を与えてくださる、と表現していらっしゃいます。「揺らぎ」とは、正しさに安住することなく、常に自らを問い続ける態度のことです。

カルト教団の問題の一つは、教団が提示する正しさに安住し、その正しさをもって他人を裁いてしまうことにありますが、これは常識の中に生きる私たちも陥りやすい問題です。宗教に関心を持つ子どもに対して親は「どうして、普通に大学を出て普通の会社に就職して、普通に結婚して幸せに暮らす」事が出来ないのかと問いただしてしまいがちですが、これは「教団が提示する正しさ」が「世間の常識という正しさ」に置きかわったに過ぎず、「正しさをもって人を裁く」という構造は変わりません。

親鸞聖人は「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」と仰いますが、私が手にした価値基準はどこまでも「みなもつてそらごとたはごと」であるとの気づきを与えてくださる教えを仰ぐことが、価値観が多様化する社会の中で大切になってくるのではないかと感じたことです。

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